【11月の教会長メッセージ】
10月は、開祖さま入寂会、生誕地まつり、日蓮聖人遠忌法要、お会式・一乗まつりがありました。
万灯行進に参加しておはやしを声に出し、鳴り物の音を聴き、目で大きなうちわのリズムを確認しながら、身体を使って広宣流布をする。すべてが調和し、全員の心が一つになる素晴らしい瞬間(異体同心)を体験しました。それは感動であり、これこそが信仰の修行になると感じました。
11月は、会長先生より【「思いやり」を、いつも心に】と「安楽」なときが「正しい」とき、「救ってあげられたら」と願うだけで と「正念」をご指導いただきました。
温泉に入り「極楽、極楽」と思う瞬間、幸せと感じる。迷いやとらわれが心からほどけ、のびのびした自分がそこにいます。
「仏」という漢字は、「ほとけ」と読み、執着・こだわりから解き放たれ「ほどける」が転じたもの。自分を縛るものから離れた「仏の境地」といってもいいのかもしれません。
仏教では、「心を常に正しい方向に向ける」ことが大切で、「八正道」の七番めに示された「正念」のことです。「心がほどけ、安らかで楽しいとき」こそ、心が正しい方向にあるといえると思うのです。法華三部経の中に「もろもろの迷いや煩いから離れ、安楽で淡々とした心を保ちたいのであれば」「慈悲、思いやりの心をもって生きよう」と願うこととあります。「あの人を救ってあげられたら」と願っているからこそ、思い悩むのでしょう。つまり、その人はもうすでに、思いやりの心が身についているのです。
雑念に惑わされているときには、尾崎放哉の一句「人をそしる心をすて豆の皮をむく」のように、まずは自分の目の前のことに打ち込む ― それも「正念」をとり戻す一つの方法です。また、「正念」の意味を「気づかい」「心くばり」と表現する人もいます。
茶道の裏千家前家元、千 玄室師は、「『あなたがお幸せでありますように』ただその一念で相手に仕える」といわれます。自分の「いま」に集中し、自分の思いは差し置いて、人さまが喜ぶように、幸せでありますようにと願いつつ、心を一つのことに向ける。それもまた、「正念」。その正念をわが心とするとき、次の「正定」が真にいきいきとした実践徳目になると教えて頂きました。 合掌