【10月の教会長メッセージ】
9月は、敬老の日、秋季彼岸会がありました。ご先祖さまやお年寄りを敬う精神と受け継ぐべきものを伝授し、継承し、感謝の心づくりをさせて頂きました。
「老いの輝き」をご指導いただき、それぞれが光輝く菩薩として、生きる姿そのままが布施となるよう、精進させて頂きました。
10月は、生誕地まつりがあり、入寂された開祖さまを偲び、「追慕・讃歎・報恩感謝・継承・誓願」の月。自分のことだけでなく、人さまのために自分の心をみつめ「仏になりたい!仏になれる」と思うことが大事です。
今月の会長法話は「祈りの先に・・」祈りとは、と意義付けられ、「自分が仏であると気づけば神仏やほかの誰かの力を恃み、祈る事はなくなります」と教えて下さいました。
開祖さまは、「神仏に祈るだけでなく、仏法すなわち真理に随順した生き方を目ざす」のが信仰。仏法を信じて身につけ、自分が仏になるという事。頭の理解ではなく、魂がそのように思えるかどうかです。
室町時代の坂士仏(さかしぶつ)という医師が、伊勢神宮への参拝にあたって「心は祈るところのない内清浄で、身はけがれのない外清浄であれば、神の心と吾が心に隔てがなくなる。神と同じであるならば、何を望んで請い祈ることがあろうか。これが真実の参宮と受け給わる」と書き残しています。会長先生の言葉を裏付けられ、信仰の本質は祈る事を必要としないところにあるようです。しかし、願ってはいけないということではなく、会長先生は「信仰を深める契機」にしたらいい。「苦しみから抜けだしたい」という声や思いをまごころで受け止めて「共に居るよ」というのが「祈り」。ぎりぎりの思いで祈らずにはいられない。その祈りの先の生き方が大事で「すべての人が苦から解き放たれるように」と願われる仏さまの大いなる慈悲の心にも通じます。願いがあるから祈る、祈るから仏の願いに気がつく。基本信行の一つである朝夕の読経供養も、自灯明・法灯明の教えを基本にして生きるための行法です。「あーそうか」と分かる時があります。日々の暮らしのなかでともどもに信仰を深めて、仏になりましょう。 合掌