佼成新聞(’14.3.9付)の「庭野会長の法話」の中の「自分が願って生まれてきた」を拝読し、目からうろこが落ちるような思いがしました。
「通常、私たちは、父を因、母を縁として生まれてきたと考えられるが、もう少し深く考えると、本当は自分という真因があって、現実の父母を縁としてこの世に生まれたのだ。そしてその真因は、自ら仏さまの教えを頂いて、悟りに到達しようとしている自主的な願いなのだ。」と教えて下さっているからです。
自分に、仏さまの教えを頂いていこうという願いがあるということは、願生(がんしょう)に通じるのではないかと思いました。
「人はみな願って生まれてきた。私も願って生まれてきた。」
今までわかっていたように思っていましたが、この法話で深い意味を教えて頂き、感動しました!
与えられたからでもなく、嫌々するのでもない。
自分に真実の原因があるからこそ、仏さまの教えを実践するものです。その主体性が大事だと教えて頂きました。
大きな励ましと勇気を頂き、少し強くなった心でこれからも精進していきます。
「願生に気づいた時が出発点 生かされ生きる仏道(ほとけみち)」 合掌
※ 願生とは・・・
世の中を平和にするために人の役に立ちたいと願って生まれてきた、ということ。