支部壮年部員 U.さんよりメッセージです。
大家好(皆さんこんにちは)!
中国に来てもうすぐ1年半になります。
小生が住んでいる恵州は非常に蒸し暑く、部屋では常にクーラーを
つけている状態ですので、外出する時は熱中症に気をつけて
水分と塩分をこまめに取るようしています。
7月20日に神戸教会から慰霊訪中団が来られ、我が支部長さんが額総御本尊を
持ってきて頂きましたのでそれに合わせて大連に行かせて頂きました。
教会長さんや支部長さんをはじめ訪中団の方々とお話をしたのはほんのわずかでしたが、ほんの一時でもお話ができたのは非常に有難く感じております。
小生にとって大連は3回目ですが、どんどん変わっていく大連を感じながらブラタモリ的に散策してみました。大連はご存知の通り、戦前に日本が統治しておりその時代のビルや建物が数多く残され、かつその多くが今も現役で使われていますが、現在の大連の建設が始まったのは1898年にロシアが統治した頃にさかのぼります。ロシアはこの街を「ダーリニー(遠方の意味)」と名づけ、当時同盟を結んでいたフランスのパリをモデルに道路が放射線状の街を建設しました。都市建設は日露戦争後に統治した日本に引き継がれ、街名をダーリニーを語源とした「大連」と命名し現在の基礎が形作られ、近代的で国際色豊かな日本人にとって夢の街の存在でありました。終戦後はソ連の占領を経て中国に返還され、現在は「北方の香港」を目指して香港や上海に追いつき追い越せの勢いで発展を続けています。
大連の陸の玄関口、大連駅です。日本統治時代の南満洲鉄道(満鉄)が建設した駅舎で瀋陽やハルピンなど北に向かう玄関口らしく上野駅をモデルにしています。かつては年配の方ならご存知の「あじあ号」の始発駅でもありました。
満鉄の野球チームが本拠地としていた大連満鉄球場だった場所で、3万人は収容できる甲子園球場によく似た大きな球場でした。大連でも野球が盛んだったんですね。中国返還後は陸上競技場として使われましたが、現在は再開発が予定されています。「兵どもが夢のあと」の言葉が非常によく似合います。
大連はこの時期は海水浴シーズンですので、どこの海水浴場も人でいっぱいでした。写真は日本統治時代は星ヶ浦と呼ばれる大連を代表するリゾート地で、現在は星海公園と名前が変わりましたが重要な海水浴場のひとつとして人々に親しまれています。せっかくですので小生も海水浴をしました。ちなみに、これで4年連続中国で海水浴をした事になります。
この写真は日本統治時代に大連商業学校であった校舎です。大連商業は甲子園で準優勝経験がある野球の強豪校で、その当時のエース投手は小生の大学の大先輩でもあり、東京六大学野球やプロ野球でも名を残しました。現在は大連市第三十六中学の校舎として使われており、グラウンドもほぼそのままで使われています。
ブログサイズの関係上、あまり写真を載せられませんでしたが、ここで中国語で話すのが何か違和感を感じるぐらい日本が残した遺産の多くを今も大事に守っているのを見ると日本人として非常に感慨深いものを感じました。また、小生が日本人と分かっても嫌な顔を一つされない、反日の言葉が無縁に感じるほど日本人を温かく受け入れてくれる大連人の懐の深さに改めて心を打たれました。それらを見ると今後も日本が残した遺産と共存共栄した平和で、「北方の香港」としてもっと生まれ変わった新しい大連に期待したい、そう感じさせて頂きました。
今後も、中国での新たな発見をご紹介させて頂ければと思っておりますので、
宜しくお願い致します。
謝謝!下次再見(またお会いしましょう)!
合掌 H.U. In 大連