こんにちは、初めての投稿となります。高校部です。
今年、3月24~26日と沖縄・高校の翼へ行かせて頂きました。
沖縄といえば、常夏、バカンスというイメージの強い場所です。私も今までそのイメージしかありませんでした。ところが、第二次世界大戦、日本で唯一地上戦のあった場所でもあるのです。
沖縄へは「バカンス」ではなく、「慰霊」で行きました。今回は、その中でも私が一番心に残るものを載せたいと思います。
さて、皆さんは、「対馬丸」という船をご存知でしょうか?沖縄から人々(子供達です)を非難させるため、国が用意した船です。「対馬丸」は運航中に潜水艦に沈められます。当時、沖縄の人々は軍艦で非難するものだと思っていました。ところが、国が用意したのは、「対馬丸」でした。
対馬丸資料館に行くと、生存者(現在は亡くなられた方もいると思います)のメッセージ・当時、非難するため「対馬丸」に乗った方々の所持品が展示されています。その中に、ランドセルがありました。兄の方は生き残り、妹は亡くなったそうです。
館長さんの話では、荷物は、別の船で先に避難先へと送られたそうです。妹さんのランドセルを見た兄の気持ちはどんなものだったでしょうか?家族は?そう考えると、涙を拭っても、拭っても溢れてきます。
資料館の出口には、現在を生きる中学生・高校生達が調べた、「対馬丸」の資料が展示されてあります。「こんな悲しいことは、二度として欲しくない。」そう書かれた資料に私は、目を奪われると同時に、憲法第9条の改正されればと考えると、悲しさと、恐ろしさに資料館から逃げるように外へ出ました。
「糸数の壕」初めて沖縄に行く私にはここでの出来事が一番心に残っています。地上戦も激しさを増し、人々は南へと逃げ、大勢の人がこの「糸数の壕」で幾夜も過ごしたと聞きました。
中に入ると、懐中電灯の明かりですら闇に飲み込まれるほどの暗さです。私達は明かりがあるからいいものの、当時はこの闇の中で、しゃべっている者の顔も分からず、朝か昼かもわからない。床は、フローリングでもなければ絨毯でもない、ただの岩。足場の悪い中を闇と、恐怖の日々を送る気持ちはどうでしょう?私は到底まともな精神を維持できないと思います。
当時、「敵軍に捕まると、ひどい仕打ちに合う」という事から、自決の道を選ぶ方もいました。その中で生きる決意を失わない方もいます。そんな話を聞くと、私は、夢であって欲しい。そう思う事しかできず、壕の闇を進みました。中腹ほど来ると、広い場所に出ます。そこで皆明かりを消しました。目を開けているのかどうか、感覚が薄れる中、戦時中生きて帰る希望を捨てないための歌「ふるさと」を皆で歌うと、涙で声は出ず、出ても歌には成りませんでした。明かりをつけると、皆が私の視界に入った瞬間、ホッとしたのと同時に、ここにいる皆を我が子のように思えてしまいました。
その時、「集団自決」という言葉が頭をよぎり、愛する者を・失いたくない者を自らの手で、その手にかける。そんなこと思うと、私はやはり拭いきれないほどの涙を流していました。
沖縄では、今なお、戦争の爪あとが残っています。不発弾。畑・軒下いたる所に埋まっているのです。50年以上経っても、今なお残っている不発弾。海外には、地雷が埋まっている場所もある。そう考えれば、今起きている、紛争・テロ、テレビ越しに見ている私達にもまったく持って無関係ではないはずなのに、今までテレビの前で何気なくいた事を自分の中で悲しく思い、何ができるかは分からないけれど、無関心でいるよりは、考えて、1人では出来ない事も皆でやればできるはず。・・・そう考えさせられた3日間でした。
最後に、沖縄へ行く前に見たビデオの一文を載せたいと思います。
『めぐまれた豊かさの中で
平和の尊さを感じるのはむずかしい
しかし、忘れてはいけない
あの日、あの時、そんな子供達がいたことを。
学んで欲しい、戦争のことを
知って欲しい、平和の尊さを
守って欲しい、未来の平和を・・・』